われわれの一切は生れつつある。
神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。
太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。
一定不変の神もなければ、宇宙もない。
常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。
過去もなければ、現在もなく、未来もない。
只存在するものが生れに生れつつある。
生もなければ死もない。
善も思わず真も考えず美も思わない。
只自分自身のみの行為はない。
只生れゆき栄えゆくのみである。
善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。
故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。
何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。
思うことは行為することである。
生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。
存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。
何ものも、それ自らは存在しない。
弥栄しない。
必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。
また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。
地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。
また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。
また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。
しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。
善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。
霊人に空間はない。
それは、その内にある情動によって定まるが故である。
また、その理によって一定せる方位もない。
また時間もなく只情動の変化があるのみである。
地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。
創造されたものならば、永遠性はあり得ない。
宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。
その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。
只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。
存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。
それは
であり、
なるが故である。
は大歓喜の本体であり、
はその用である。
それは、善でもなく悪でもない。
真でもなく偽でもない。
美でもなく醜でもない。
また愛でもなく憎でもない。
プラスでもなければマイナスでもない。
しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。
善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。
これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。
それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである。
神が意志するということは、神が行為することである。
そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である。
神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。
神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云う。
神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。
月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。
日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである。
月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。
故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。
地上人は、この月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い。
日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。
月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。
ために二義的の歓喜となる。
故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。
おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのである。
この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。
これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。
地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。
それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。
以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。

