| 日月神示 ( 841 ) 補 巻 月光の巻 54 帖 1959年03月03日 |
| 頭を下げて見なされ、流れて来るぞ。
頭も下げず低くならんでゐては流れては来ないぞ。 神のめぐみは淡々とした水のようなものぞ。 そなたは頭が高いぞ。 天狗ぞ。 その鼻まげて自分のにほひをかいで見るがよい。 そなたは左に傾いてゐるぞ。 左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。 そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御座るぞ。 そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。 立体の道を早うさとりなされよ。 【正中の大道】あるのであるぞ。 左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。 左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。 原因の世界に入らねばならん。 平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。 相対では争ひぢゃ。 いくさぢゃ。 真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。 三千世界和平から出発せねばならんぞ。 そなたは神示をよくよんでゐるが、それだけでは足らん。 神示を肚に入れねばならん。 つけ焼刃ではならん。 神示を血とし生活とすれば、何事も思ふ通りスラリスラリと面白い程栄えて来るぞ。 思ふように運ばなかったら省みよ。 己が己にだまされて、己のためのみに為してゐることに気づかんのか。 それが善であっても、己のためのみならば死し、善のための善ならば弥栄えるぞ。 善にも外道の善あるぞ。 心せよ。 神示見て居らぬとびっくりが出てくるぞ。 この世始まってないことが出てくるのぢゃ、世界の片はし八まべからぞ。 判りたか。 そなたは神体を偶像と申して御座るが、それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ。 礼拝を忘れ、祈りをわすれることは神をわすれることぢゃ。 そなたの住む段階では、祈り畏こみ謹んで実践しなければならんぞ。 拝まんでも拝んでゐる境地はなかなかぢゃなあ。 そなたはわれが助かろうとするから助からんのぢゃ。 世界はこの世ばかりではないことを、よく得心して下されよ。 我をすてて素直になされよ。 三千年の秋が来てゐるのであるぞ。 |
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