| 日月神示 ( 794 ) 補 巻 月光の巻 7 帖 1958年12月25日 |
| 大奥山は神人交流の道の場である。
道は口で説くものではない。 行ずるものである。 教は説かねばならない。 多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。 投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。 世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。 それより他に人民の得心出来る道はないと申してゐるが、道はいくらでもあるぞ。 人民の申してゐるのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。 ぢゃと申して独裁ではならん。 結果から見れば神裁ぢゃ。 神裁とは神人交流によることぞ。 (十二月二十五日) 神はうそつきぢゃと人民申しても、悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労、こらえられるだけこらえてゐるのである。 もう、ものばかりでは治まらんこと、キンでは治まらんこと、平面のみでは駄目であること、よく判ってゐるのにカブトぬげん神々様よ、気の毒が来ぬ前に改心結構。 遠くからでは判らんし、近づくと迷うし、理屈すてて神にほれ参らせよ。 よくこの神をだましてくれたぞ、この神がだまされたればこそ、太神の目的なってくるのぢゃ。 細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。 区別すると力出るぞ、同じであってはならん。 平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。 天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。 霊かかりもやめて下されよ。 人民が絶対無と申してゐるところも、絶対無ではない。 科学を更に浄化弥栄させねばならん。 空間、時間が霊界にないのではない。 その標準が違うから無いと考えてよいのである。 奥山は奥山と申してあろう。 いろいろな団体をつくってもよいが、何れも分れ出た集団、一つにしてはならん。 奥山はありてなきもの、なくて有る存在である。 奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。 大き一つではあるが別々ぞ。 今迄になかった奥山のあり方、判らんのも無理ないなれど、これが判らねばこの度の大神業、判りはせんぞ。 |
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