| 日月神示 ( 837 ) 補 巻 月光の巻 50 帖 1959年03月03日 |
| 何も六ヶ敷いこと申すのではない。
自分の、内の自分を洗濯して明らかに磨けばよいのぢゃ。 内にあるものを浄化すれば、外から近づくものがかわって来る道理。 内の自分を洗濯せずにゐて、きたないものが近づくとか、世の中がくらいとか不平申して御座るなれど、そこにそなたの間違いがあるぞ。 木でも草でも中から大きくなって行くのぢゃ。 三千年に一度の時がめぐり来てゐるのであるぞ。 為せば成る時が来てゐるのぢゃ。 為さねば後悔ぞ。 時すぎて種まいても、くたびれもうけ。 そなたは世の中が悪いとか人がよくないとか申してゐるが、すべては大神の肚の中にゐて、一応大神が許しなされて居ればこそ存在し、いのちしてゐるのであるぞ。 悪くうつるのは心のかがみがくもってゐるからぞ。 悪い世の中、悪い人と申すことは、神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ。 新しき世界には新しき【てんし(天詞)てんか】をこしらえねばならん。 このこと間違えるでないぞ。 珍らしき御型(方)が出て来てびっくりぢゃ。 びっくりしなければヒックリとはならんぞ。 神は今迄化けに化けていたが、もう化けては居られん。 人民ももう化けては居られんぞ。 九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。 教では世は正されん。 教のつどいはつぶれて了うのぢゃ。 無理してはならん。 そなたの無理押しはよいことをわるく曲げるぞ。 |
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